映像の歴史
キネトスコープ
キネトスコープは覗き込み式の
箱型映写機なので、現在の映画の
ようにフィルムをスクリーンに
映写して大勢で観るという
スタイルではなく、1人ずつしか
観ることができませんでした。
また、再生できる映像の長さは
約1分。エジソンが初めて開催した
上映会では、鍛冶屋が鉄を叩いている様子を映した35秒程の映像が公開されました。この映像は「Blacksmith Scene」と呼ばれています。
そして1894年、彼はニューヨークに「エジソンパーラー」という、キネトスコープを
複数台設置してお客さんが自由に好きな映像を選んで観られる、映画館のようなものをオープン。
大盛況のエジソンパーラーは瞬く間に話題になり、数年後にはアメリカ各地に
キネトスコープパーラーが作られました。
日本では、1896年11月に大阪の鉄砲商・高橋信治がキネトスコープを輸入し、
日本で初めて上映会を開いたということです。
しかし、キネトスコープは先述のとおり覗き込み式の箱型のため、1台につき1人ずつでしか
映像を鑑賞できません。
また、1台に1つの映像が内蔵されている形なので、新しい映像を見るには更に
また新しいキネトスコープを購入しなければいけませんでした。
キネトスコープパーラーの興行者たちは、お客さんと収益を増やすためにはキネトスコープの
台数を増やし続けなければいけないのです。
やがて、興行者たちはキネトスコープを買い足さずにお客さんと収益を増やすことを
望むようになりました。
またお客さん達からも、一度に大人数で同じ映像を鑑賞して楽しみたい、
という声が多く挙がるように。
そこで、キネトスコープよりも現代の映画上映スタイルに近い新たな映写機を発明する人が
別に登場し、エジソンは売り上げの落ち込んだキネトスコープに泣く泣く見切りを
つけたのだそうです。
映像の発展には、たくさんの人の夢や成功や悔しさが隠れているのですね。
その新しい映写機は、エジソンと同じく“映画の父”と呼ばれているリュミエール兄弟が
発明した『シネマトグラフ』というものなのですが、それについては、
また別の機会に御紹介します。